ガルシア・マルケス『百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)』
恐ろしい小説だ。
1982年ノーベル文学賞を受賞した作家。
この「百年の孤独」を書いたのは、彼が30代だったと記憶している。
あぁ恐ろしい、30代でこんな小説を書いてしまったら、この後どう生きていくのか!?
(実際は87歳まで生きた)
ある一族の100年の軌跡。
圧倒的な複雑さを含んでいるのに、読後感はシンプルな感情だけが残る。
人の愚かさと強さ。
血とは何か?家族とは何か?血統とは何か?輪廻とは何か?民族とは何か?故郷とは何か?
改めて人生なんて儚く、ちっぽけなもんだ。
本当にちっぽけなもんだ、と思い知らされる。
そして、ちっぽけな人生には、愛が不可欠だ。
そして、ちっぽけな人生と愛には、物語が必要だ。
こんな感じ?!
「ちっぽけな人生」×「ちっぽけな愛」=「物語」
カリブ海沿岸の小さな町に生まれ、魔術的とも言える物語を紡いだガルシア・マルケス。
情報の限界費用が限りなく¥0になる時代において、
ガルシア・マルケス的な物語の役割とは何かをぼんやり考える。
Gotchの言葉と重なる。
「1週間で見事に消費されてしまう音楽もあるけれど、
30年経って掘り返され、新しい輝きを放つ作品もある。
(中略)
100万枚売れたって、数年後に100円均一でCDが叩き売られてたんじゃ悲しい。
そんな未来には全力で抗うような、素敵なCDアルバムを作る」
まさにガルシア・マルケスの物語は、何十年何百年と残り続けるだろう。
残るものと消えるもの。
その境界とは何か?!
更に、消えるものがダメなのか?!
残るものが偉いのか?!
分からないが、私は残るものが好きだ。
分母と分子がきちんと考えられている作品が好きだ。
(人や会社もある意味で作品だ)
ガルシア・マルケスが晩年認知症に苦しんだという。
なんとなく百年の孤独に出てくる男達と重なる。
アウレリャノ大佐に近いか?!
もしくはマルキアデスの様に、今もどこかで世の中を見ているのだろうか?!
個人の余暇時間の取り合いとなっている。
SNS、動画サイト、ブログ、ゲーム、TV、映画、音楽、飲み会、女子会、ショッピング、旅行。
どのメディアもFrictionlessを目指し、群雄割拠している。
(電車の中でスマホゲームしている男性が多すぎることに少しばかり辟易しているが…)
物語の重要性が叫ばれている。
しかし、物語を語る人があまりにも少ない。
更に、物語を上手に語れる人はほとんどいない。
スペックでの差別化は難しい。
価格での差別化はもっと難しい。
何十年何百年残る(かもしれない)物語を作る方向感は間違いない、と思う。
もっと物語を語ろう、とも思う。
キーワードは、物語だ。
今まで以上に物語が重要になる時代がくる。
あなたが語れる物語はなんですか?!
そして、私が語れる物語はなんだろう。